隣の席の同僚が「無音のオナラ」の犯人を突き止めるために必死すぎる件
平和な午後のオフィス。キーボードを叩く音と、時折聞こえる溜息が溶け合う穏やかな空間だ。しかし、私の隣に座る佐藤くんだけは違った。彼は今、人類史上最も不毛で、かつ命がけの捜査を行っている。
事の発端は午前11時。誰かが放った「静寂の凶器」が、デスクエリアに充満したことだった。それは音もなく発生し、嗅覚をダイレクトに攻撃する、いわゆる「無音の爆弾」だ。
被害を受けた佐藤くんは、鼻を押さえながら立ち上がった。その瞳には、名探偵さながらの鋭い光が宿っていた。 「犯人は、この中にいる」
それからの佐藤くんの行動は、完全に一線を越えていた。彼は自作の『オフィスガス汚染調査シート』なる謎の書類を作成し、全社員の動向を監視し始めたのだ。
彼の捜査手法は、もはや犯罪の域に近い。
- 着席時の姿勢のデータ化:椅子に座る際の「重心の傾き」と「臀部の圧のかかり方」を、双眼鏡(なぜか持っていた)で観察。
- 表情の変化のモニタリング:誰かがふと安堵の表情を浮かべたり、あるいは必死に笑いを堪えて口元を歪めたりする瞬間を、「犯行直後の証拠」としてカメラで記録。
「見てください、課長が今、右に体重を傾けて少しだけ浮きました。これは、ガス排出の際のカウンターバランスをとる動きです!」
佐藤くんは私に興奮気味に囁くが、周囲からは完全に「不審な監視員」としてマークされている。実際、隣の席で必死に誰かの肛門周辺の動きを凝視している人間がいたら、私だって通報する。
悲劇は午後の会議で頂点に達した。佐藤くんは、朝から徹底的に監視していた「最有力容疑者」である経理の田中さんの後ろに回り込み、彼の椅子の角度を極秘調査しようとしたのだ。
田中さんが椅子の背もたれを引いた瞬間、佐藤くんは前のめりに転倒。勢い余って、田中さんのズボンを掴んで引き下げてしまった。会議室は一瞬にして静まり返り、佐藤くんの「……データ上は、ここでした」という悲痛な呟きだけが響き渡った。
結局、犯人は特定できなかった。後になって分かったことだが、その匂いの正体は、佐藤くん自身が朝食で食べたばかりの「特製ニラキムチおにぎり」の残り香が、彼の上着から漂っていただけだったのだ。
夕方、人事に呼び出された佐藤くんの背中は、いつも以上に小さく見えた。彼は今もなお、自身のデスクで静かにキーボードを叩いている。その姿勢は、心なしか以前よりもずっと「無防備」になっていた。
