記念日の高級フレンチで、隣の席の「美食家マダム」が迷走を始めた件
結婚記念日ということもあり、奮発して予約した隠れ家的な高級フレンチレストラン。落ち着いた照明、磨き上げられた銀食器、そして何より緊張感漂う静寂。僕たちはその空気に少し圧倒されながら、メインディッシュを待っていた。
事件は、隣のテーブルに座った派手な装いのマダムによって引き起こされた。
マダムは、まるで宝探しでもするかのようにメニューを凝視し、連れの紳士に向かって小声で……いや、店中に響くような声で話し始めた。
「ねえ、あなた。これよ、『フォアグラ・ド・カナール』。要するに、カナール星産の極上フォアグラのことね。空輸じゃないわ、きっと光の速さで届いているのよ」
思わずフォークを落としそうになった。フォアグラ・ド・カナール(鴨のフォアグラ)は、ただの「鴨」だ。宇宙からの贈り物ではない。横にいた妻が、必死に笑いをこらえて肩を震わせている。
マダムの「知ったかぶり」は止まらない。料理が運ばれてくるたびに、彼女の脳内辞書では異次元の翻訳が行われていく。
「あら、これは『ポタージュ・サン・ジェルマン』。サン・ジェルマン伯爵が不老不死の秘薬として食べていたという、伝説の豆スープね。一口で十年若返るわ」
それはただのグリーンピースのスープだ。厨房の奥から聞こえてきそうなシェフの悲鳴を想像し、僕は冷や汗が止まらなくなった。
極めつけは、ウェイターが料理の説明に来た時だった。マダムは得意満面にウェイターの言葉を遮り、こう言い放ったのだ。
「この『コック・オー・ヴァン』ね。フランス語で『ヴァン(風)』、つまり空気を食うという意味よね? つまりこれは、目に見えないほど繊細な鶏の風味が味わえる、極上の禅の料理……そうでしょう?」
(鶏の赤ワイン煮込みが、いつから禅の境地になったんだ……)
凍りつくテーブル。ウェイターの表情は完璧なプロの仮面を被っていたが、右の口角がわずかに引きつっているのを僕は見逃さなかった。ウェイターは深々と頭を下げ、「……非常に、深い解釈でございます」とだけ言い残し、音速でその場を去った。
隣で見ていた妻が、ハンカチで口を押さえながらボソリと呟いた。 「ねえ、私たちも何か一つくらい、とんでもない解釈をして対抗すべき?」
僕は静かにワインを一口飲み、小さく首を振った。 「やめておこう。これ以上、このレストランの歴史を汚すわけにはいかない」
僕たちは結局、その夜、最高級の料理の味よりも、「風を食うマダム」の強烈なインパクトをデザート代わりに店を後にした。帰りのタクシーの中で、ようやく堪えていた笑いが爆発した。
もし次に高級フレンチに行く機会があったら、メニューを見る時は細心の注意を払おう。自分もいつの間にか、「カナール星人」になってしまうかもしれないから。
