30代のプライド、小学4年生に粉砕される。僕が「先生」に降格したあの日
30代も半ばを過ぎると、人生に「刺激」が欲しくなる。そんな安易な動機で、私は近所のカルチャースクールへ足を踏み入れた。選んだ習い事は、子供から大人まで幅広く人気の「デジタルイラスト講座」。
「趣味で絵が描けたらカッコいいよな。週末はカフェでiPadを広げて、ササッとラフ画を描く30代の休日。……最高かよ」
そんなバラ色の未来を夢見ていた初日。私の隣の席に座っていたのは、ランドセルこそ置いていないものの、明らかに小学4年生と思われる小さな天才児・ハルト君だった。
運命の出会い、そして地獄の始まり
講座が始まると、講師は「今日はデッサンの基本をやりましょう」と切り出した。私はといえば、YouTubeで独学した知識を少しだけ持っている。内心、「大人として、そこそこの技術は見せつけておきたい」という、浅ましい見栄が鎌首をもたげていた。
しかし、その自信はわずか15分で崩れ去った。
隣から聞こえてくる、ペンタブの「スッ、スッ」という軽快かつ正確な音。ふと横を覗くと、そこには私の10倍の速さで、かつ100倍美しい曲線を引くハルト君がいた。彼が描いているのは、立体感も奥行きも完璧な神絵だった。私のキャンバスには、まるで生まれたての小鹿が泥の上で転げ回ったような悲惨な線が並んでいる。
「あ、それ、ブラシの不透明度を60%くらいに落として、入り抜きを意識するともっと馴染みますよ」
ハルト君が、私に向けて放った一言。まるで大御所プロイラストレーターのような口調だった。私は思わず、「……あ、ありがとう」と引きつった笑顔で返した。32歳のプライドが、音を立てて崩れ落ちる音がした。
先生の無慈悲な宣告
地獄はここからが本番だった。受講生の中には、全くの初心者である60代の女性がいた。彼女がツールの使い方がわからず困っていると、私は「ここをクリックして……」と教えようとした。
すると、間髪入れずにハルト君が割り込んできた。
「おばちゃん、そこはショートカットキーの『Ctrl+Z』を使うと便利だよ。あと、レイヤーは乗算モードにしないと色が濁っちゃうから」
神がかった的確なアドバイス。おばちゃんは目を輝かせ、「まあ! この子すごいわね!」と感動している。私の出番は完全に消滅した。
そして、その一部始終を見ていた講師が、ニッコリと微笑みながら私の肩を叩いた。
「いやあ、すごいねハルト君は。……ところで〇〇さん(私)、君もさ、ハルト君の教え方を少しは見習いなさいよ。言葉が具体的で、すごく分かりやすいだろう?」
心臓がキュッとなった。「いや、あの子は別格で……」と言い訳しようとしたが、講師はすでに別の生徒のところへ行ってしまった。
私はただの「付き添いの親」か?
その日の帰り道。私は駅のホームで、iPadをバックパックの奥底にしまい込んだ。
ハルト君は帰り際、私にこう言ったのだ。 「お兄さん、また来週も頑張ろうね。僕、教えるの得意だから、また分からないことがあったら何でも聞いてよ!」
悪気のない、純粋な励ましの言葉。それが30代の心臓を容赦なく刺し貫く。
今、私は次の教室へ行くべきか迷っている。行けば、またあの天才小学生に「ここはこう描いたほうがいいよ」と優しくマウントを取られ、先生には「彼を見習え」と説教されるのだ。
30代からの習い事は、技術を学ぶ場所ではない。自分の無力さと向き合い、子供の成長を特等席で眺める「修行の場」だと気づいた今日この頃。
……来週、私は「教えるのが上手い小学生」の影武者として、全力でハルト君を褒めちぎる役回りに徹することになりそうだ。とりあえず、まずは彼のペンタブの持ち方から研究しようと思う。それが今の僕にできる、精一杯のプライドの守り方だから。
