「お任せで」と言っただけなのに!美容師の熱血指導で失恋から強制脱却した話
「今日はどうしますか?」
美容室の鏡越しに、担当美容師・田中さん(仮名・推定30代、熱量高め)が問いかけてくる。私はその時、3年付き合った恋人に振られたばかりで、心は荒野、髪は湿気でボサボサ。
「……あ、もう、似合うように。お任せでお願いします」
この一言が、私の人生を狂わせるとも知らずに。
「覚醒の刻(とき)です」
私の言葉を聞いた瞬間、田中さんの瞳がキラリと光った。ハサミを構える手が、まるでオーケストラの指揮者のように躍動し始める。
「わかりました。今のあなたには、過去を切り捨てて新しい世界へ飛び込む“覚醒のスタイル”が必要ですね!」
……えっ、何? 覚醒? 反射的に「いえ、普通でいいんです」と言いかけたが、田中さんの尋常じゃない熱気に気圧され、言葉が喉の奥で詰まる。
「いいですか、今のあなたの前髪は『守りに入っている』。ダメです、前髪を切り、額を出すことで運気を呼び込み、新しい風を通すんです!」
ザクッ、ザクッ。
私の人生の縮図のような前髪が、軽快な音と共に床へと散っていく。鏡の中で、私の顔がどんどん「見知らぬ人」になっていく。眉毛が見える。いや、眉毛が全開になっている。
突如始まる「人生哲学」の講義
カット中、田中さんの語りは止まらない。
「あなたは振られたんじゃない。選ばれたんです。自分をもっと輝かせるための『独身という名の冒険』に!」 「その服、地味ですね。次はもっと原色を取り入れましょう。まずは赤いスカーフからだ!」
シャンプー台では、頭皮マッサージをしながら「あなたの潜在能力はこんなもんじゃない!」と自己啓発セミナーのような叱咤激励が飛んでくる。もはや癒やしの場ではない。ここは人生改造道場だったのか。
鏡の中にいたのは、誰?
1時間後、完成した自分を鏡で見て、私は二度見した。
そこには、今まで見たこともないくらい潔く、額を出し、少し奇抜なほど軽やかなショートボブの自分がいた。なんだか、凄く……強そう。そして、驚くほど似合っている。
「どうです? これが、次のステージへ進むあなたの姿ですよ」
田中さんが満足げに微笑む。その顔を見ていたら、不思議と涙ではなく笑いがこみ上げてきた。 確かに、鏡の中の私は、さっきまでメソメソしていた自分よりずっと「次の恋を狩りに行きそう」な顔をしていたのだ。
「……ありがとうございます。なんか、吹っ切れました」
店を出ると、不思議と足取りが軽い。 あの日、私は「お任せ」という名のギャンブルで、失恋の未練をすべてハサミの刃に置いてきた。
帰り道、赤いスカーフを買ったのは言うまでもない。 次回の予約は、田中さんに「婚活の戦術を教えてもらう」予定だ。美容師の熱量一つで、人生の向きはこんなにも簡単に変わるものらしい。
