30歳を過ぎて知った「私の常識」の崩壊:恥ずかしすぎる勘違いの告白
大人になると、世の中のことは大体わかってきたつもりになる。だが、30歳という節目を越えたとき、私は自分の「常識」が砂上の楼閣だったことを思い知らされた。
ある日のランチタイム、おしゃれなカフェで運ばれてきたハンバーグの横に、それは添えられていた。そう、彩りのために鎮座する「パセリ」である。私は迷いなく、フォークでそれを口に運ぼうとした。その瞬間、同席していた友人が叫んだ。
「え、それ食べるの?ただの飾りだよ!」
その時、私は凍りついた。30年以上、私はパセリを「栄養満点の副菜」だと信じて疑わなかったのだ。いや、それどころか、レストランでパセリを残す人を「なんてマナーを知らない大人なんだ」と心の中で軽蔑すらしていた。まさか、自分が「食べる必要のないもの」を必死に咀嚼し続けていたとは。
言葉の定義、崩壊の瞬間
だが、私の勘違いは食生活に留まらなかった。もっと深刻だったのは「言葉」の誤解である。
私は20年間、「敷居が高い」という言葉を、「高級で入りにくい」という意味ではなく、「悪いことをしたから入りにくい(後ろめたい)」という意味だと思っていた。つまり、謝罪すべき相手の家に行くときに使う言葉だと信じていたのだ。
ある日の会議で、私は得意げに言った。 「あそこの会社は、以前の不祥事があるから、今さら訪ねるのも『敷居が高い』ですよね」
上司が数秒の沈黙の後、優しくこう言った。「それは『後ろめたい』のことだね。敷居が高いっていうのは、高級なお店とか、立派すぎて自分には不釣り合いな時に使うんだよ」
会議室に流れたあの静寂は、今思い出しても冷や汗が出る。30年間、私はどれほどの人に「私は今、悪いことをして気まずいので、あなたには会えません」と宣言してきたのだろうか。
私たちは、愛すべき「おっちょこちょい」だ
なぜ、大の大人がこんなにも単純な勘違いをしてしまうのか。それはきっと、誰かに正解を教わる機会がないまま、見よう見まねで生きてきたからだろう。
パセリを食べるのも、言葉を履き違えるのも、悪気はない。ただ少しだけ、思い込みが強かっただけなのだ。そして、こうした恥ずかしい失敗に気づくたび、私たちは少しずつ「本物」の大人に近づいていくのだと思う。
もし今、これを読んでいるあなたが「そんなの間違えるわけがない」と鼻で笑ったのなら、注意が必要だ。あなたの心の中にも、パセリのように「当然だと思っているけれど、実は全く違うもの」が一つくらい隠れているはずだから。
恥をかくことは、大人になってからの数少ない成長痛だ。そう思えば、この赤っ恥も少しは愛おしく思えるのではないだろうか。
さあ、今日も胸を張って生きよう。たとえ、今日から人生の「敷居」をまたぐ意味を間違えずに使わなければならないとしても。
