封印されし「漆黒の鉄パイプ」と、父の尊厳が崩壊する午後
平穏な日曜日の午後、我が家は突如として「世界滅亡の危機」に瀕した。いや、正確には「父の社会的な死」が確定したと言うべきか。
事件の発端は、高校生の息子・ハルトがクローゼットの奥から見つけ出した「謎の物体」だった。
「ねえ、父さん。これ何? 物置の奥から出てきたんだけど」
リビングでコーヒーを飲んでいた俺の視界に飛び込んできたのは、新聞紙に幾重にも包まれた禍々しい鉄の棒――かつて俺が『冥界の楔(ヘル・ウェッジ)』と命名し、深夜の公園で素振りを繰り返していたサビだらけの鉄パイプだった。
「おい、それを置け! それは……触れてはならない、呪いの遺物だ!」
思わず立ち上がった俺の叫びも虚しく、ハルトはニヤニヤと笑いながら、もう一つの「戦利品」を掲げた。表紙に血のような赤で『アーカーシャの深淵を記せし禁断の書』と書き殴られた、中身はただの自由帳である。
「『アーカーシャの深淵』? 父さん、もしかして……これ書いたの?」
「よせ! それを広げるな! 結界が破れる!」
俺は必死だった。ハルトがノートを開こうとした瞬間、ダイビングキャッチで彼に飛びかかる。しかし、今の俺はかつての「暗黒の支配者(ダーク・ルーラー)」ではない。ただの運動不足の中年だ。ハルトにひらりと交わされ、俺はリビングのラグの上で無様に転がった。
「うわ、すげー。これ、冒頭からヤバいぞ。『我の左眼が疼くたび、時空の歪みが星々を飲み込む』……父さん、これ、何歳の時のやつ?」
ハルトの声が震えている。笑いを必死に堪えているのが丸わかりだ。
「あれは……そう、あれは当時のトレンドだ! 世の中の全員がこういうポエムを書いていた時代だったんだ! 社会現象だよ!」
「初めて聞いたよそんな社会現象。で、この『悪魔の契約書』って何? 自分の名前が血のサインで書いてあるんだけど、これペンだよね? ケチャップ?」
「うるさい! 返せ! それは俺の……俺の、青春の墓標なんだ!」
俺はなりふり構わず息子の足にしがみついた。しかしハルトは、俺の黒歴史を読み上げることで最強の防御術を身につけていた。
「『我に逆らう者、滅びの業火に焼かれよ』だってさ。父さん、先週の夕飯がカレーだった時も『この辛さは魔界の宴か……』とか言ってた?」
「言ってない! 少なくとも食卓では言ってない!」
「あと、この鉄パイプに巻いてあるボロボロの包帯、これ何?」
「それは……その……ダメージ加工だ!」
必死の攻防の末、俺はついに力尽きた。ノートはハルトの手中にあり、鉄パイプは無残にもソファの隙間に突き刺さっている。
ハルトはふう、と息を吐くと、少しだけ悲しそうな目で俺を見た。
「……父さん、わかったよ。これ、二度と誰にも見せないから。……その代わり、今夜の夕飯、高い寿司屋に連れてってよ。これは『沈黙という名の報酬』だ」
俺はその瞬間、悟った。俺がかつて夢見た「世界を支配する術」など、この小狡い息子をあやすための布石に過ぎなかったのだと。
「……分かった。寿司だ。特上でいい」
こうして、俺の黒歴史は、特上寿司の代金と引き換えに、再びクローゼットの奥底へと封印された。だが、夜中にふと目を覚ますと、隣の部屋から聞こえるハルトの忍び笑いが、俺の左眼をたまらなく疼かせるのである。
