電波も看板もない場所で。限界集落で過ごした24時間の「贅沢な退屈」
スマホの画面をタップする指先が、妙にせわしないことに気づいたのは、出発の二日前だった。SNSの通知、溜まった未読メール、無限に流れてくる他人の日常。それらを遮断したくて、私は地図アプリの「観光地」というレイヤーをすべてオフにした。
そして見つけたのが、とある山あいの限界集落だ。コンビニはおろか、自動販売機すら数キロ先までない。そんな「何もない」場所へ、私は手帳とペン、一冊の文庫本だけを持って向かった。
信号機のない村の日常
集落へ続く道は、対向車が来たら立ち往生するような狭い山道だった。村に到着してまず驚いたのは、その「音のなさ」だ。都会の喧騒とは違う。風が木々を揺らす音、遠くで鳴く鳥の声、そして自分の足音。世界がこれほどまでに雄弁だったのかと、耳が驚いているのがわかった。
スマホを取り出そうとして、ポケットの中が空であることに安堵する。ここでは、時刻を確認するために画面を光らせる必要すらない。太陽の傾きが、そのまま時計の代わりになるからだ。
村の広場で腰を下ろしていると、軽トラックに乗った地元の男性が声をかけてきた。今年で82歳になるという、この村の主のようなおじいさんだ。
「あんた、どこから来た? まさか観光じゃないだろう。ここは何も見るところはないぞ」
そう笑う彼に、私は正直に答えた。「何もない場所を探しに来たんです」と。
おじいさんが教えてくれた「退屈」の味
おじいさんは興味深そうに目を細め、そのまま茶飲み話に付き合ってくれた。話題は、かつてこの村が活気に満ちていた頃の話から、昨日の晩御飯の漬物の味、さらには「なぜ空は青いのか」という哲学的とも取れる問いまで多岐にわたった。
驚いたのは、彼との対話に「無駄」が一切なかったことだ。 普段の会話なら、すぐにスマホで裏付けを取りたくなるような情報も、ここでは記憶と想像力だけで紡がれていく。間違っていてもいい、不正確でもいい。ただ、目の前の相手の声に耳を傾け、相手の表情を読み取る。そのシンプルで濃密なコミュニケーションに、私は飢えていたのだと気づいた。
「退屈だろう?」とおじいさんは最後に言った。
私は首を横に振った。 「いえ、これほど贅沢な時間は久しぶりです」
「何もない」の正体
夜になると、世界は漆黒に包まれた。街灯が一つもないため、空を見上げれば、そこには言葉を失うほどの星空が広がっていた。
静寂の中で、私は持参したノートを開いた。普段ならSNSに書き込んでいたであろう「自分の感情」を、インクに変えて紙に定着させる。誰かに反応を求める必要のない、自分だけの言葉。スマホというフィルターを通さず、五感で感じたそのままを記録する作業は、まるで凍りついていた思考が少しずつ溶けていくような心地よさがあった。
翌朝、村を出る準備をしながら思う。 私たちが「退屈」と呼んでいるものは、実は単なる「情報の欠如」に過ぎないのではないか。情報の奔流を止めたとき、初めて見えてくる景色がある。聞こえてくる音がある。そして、自分自身の声がある。
24時間という短いデジタルデトックスの旅は、私に「何もない」ことの豊かさを教えてくれた。
帰りの車中、私はスマホの電源を入れなかった。目的地へ急ぐ必要はない。見える景色すべてが、私だけの映画館のスクリーンだったのだから。
