「電波圏外、道なし」日本一たどり着けない秘境旅館への冒険記
「目的地周辺です」
地図アプリがそう告げた場所には、天を突き刺すような杉の木と、冷気を孕んだ濃い霧しかなかった。アスファルトはとっくに途切れ、私の愛車であるSUVのタイヤは、落ち葉に埋もれたぬかるみに空転している。
スマホの画面を見る。アンテナのアイコンには無情にも「圏外」の文字。今回の目的地である秘境旅館『山幽庵(さんゆうあん)』は、ネット上の口コミですら「宿というより、たどり着いたこと自体が修行」と称される場所だ。
聞き込みは、まるでRPGのクエスト
ここからは、アナログな力技に頼るしかない。幸い、数キロ手前で見かけた小さな集落まで歩いて戻ることにした。
道端で薪を割っていた老人に声をかける。「すみません、山幽庵へ行きたいのですが……」
老人は手元を止め、まるで都市伝説でも聞いたかのようなニヤリとした笑みを浮かべた。「ああ、あそこか。地図なんて見て行くなよ。あの橋を渡ったら、右でも左でもなく『川の音の形』を追え。流れが二手に分かれる場所がある。そこを、わざと崖の方へ登るんだ」
抽象的すぎるアドバイスを頼りに、私は森の奥へと足を踏み入れた。道なき道を歩くのは、まさにリアル脱出ゲーム。倒木を飛び越え、湿った岩場を這い上がる。心臓が早鐘を打つたびに、文明社会から隔離されていくような奇妙な高揚感が押し寄せてきた。
辿り着いた「終着点」
日が暮れかけ、体力が限界を迎えたその時だった。深い霧のカーテンがふっと開いた。
そこには、まるで時が止まったような茅葺き屋根の古民家が佇んでいた。周囲には獣の鳴き声ひとつしない。異様なほどの静寂だ。恐る恐る格子戸を叩くと、中から現れたのは、質素な作務衣を着た、驚くほど若い主だった。
「ようこそ。よく道に迷わずに……いや、迷って辿り着いてくれましたね」
彼は当然のように微笑み、私を奥の間へと通した。
予想外の「おもてなし」
「まずはこれをどうぞ」と出されたのは、温かいお茶ではなく、冷えた一椀の「湧き水」だった。不思議に思いながら口にすると、全身の疲労が嘘のように消え去る。
そして夕食。出てきたのは豪華な懐石料理ではなく、たった一枚の「焼きおにぎり」と「焚き火」だけだった。
「うちは、おもてなしをしません」
主は焚き火の炎をいじりながら言った。
「ここは『何もない』ことを楽しむ場所です。電波も、豪華な食事も、ふかふかのベッドもない。あるのは、あなた自身と向き合う時間だけ。たどり着けないことこそが、日常という鎧を脱ぎ捨てるための唯一の儀式なんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は深く納得した。都会の喧騒で磨り減らしていた神経が、山奥の圧倒的な静寂に溶けていくのがわかった。
翌朝、私は霧が晴れた絶景の山道を、来た時よりも軽い足取りで下っていた。あそこにあったのは、単なる宿ではない。自分自身という忘れ物を取りに行くための、境界線のような場所だったのだ。
もしあなたが、人生のどこかで迷子になっているのなら。地図を捨て、電波のない山奥へ出かけてみてほしい。たどり着けない場所には、必ずと言っていいほど「本当の自分」が隠れているのだから。
