絶景を捨てて「地味」を愛でる旅:隣町の誰も知らない公園を徹底調査してみた
ガイドブックの表紙を飾るような、心臓を鷲掴みにされる絶景。あるいは、SNSの「いいね」を量産するフォトジェニックなカフェ。私たちはいつから、旅に「収穫」を求めるようになったのだろうか。
「何かを持ち帰らなければいけない」という強迫観念から自分を解放するため、私はあえて地図上の空白――隣町の、名前さえ覚えにくい小さな公園――を目指すことにした。
錆びた鉄棒という名の「無」
目的地は、駅から徒歩20分。住宅街の奥にひっそりと佇む「〇〇第二公園」だ。Googleマップにも写真がほとんど投稿されていない、潔いまでの「何もない」空間である。
到着してまず目に入ったのは、かつて赤かったであろう鉄棒だ。長年の雨風に晒され、今は深みのある茶色いグラデーションを纏っている。子供たちの熱狂を受け止めてきたであろうその表面を、指でそっと撫でる。キンと冷たい鉄の感触。ここには誰かの思い出の残骸があるはずだが、それが誰のものかを知る術はない。この「名もなき経年変化」を眺めていると、日々の仕事の悩みや自己肯定感の揺らぎが、ただの砂粒のように思えてくる。
ベンチから見る「日常」という絶景
公園の中央には、ペンキが剥げかかった木製のベンチがある。私はそこに腰を下ろした。
観光地であれば、目の前には大海原や山脈が広がるはずだ。しかし、ここにあるのは向かいの家の物干し竿と、近所の主婦がスーパーの袋を下げて通り過ぎる後ろ姿だけだ。
面白いことに、15分も座っていると、視界が変化し始める。 隣の生垣からこぼれる花の香り。遠くで聞こえる、誰かが炊飯器のスイッチを押す音。夕暮れに染まる電柱の影。それらは「絶景」には遠く及ばないが、極めて解像度の高い「生きた時間」の断片だった。
ここでは、シャッターを切る必要がない。何かが映り込む心配も、行列に並ぶストレスもない。ただ、世界が回っていることだけを確認する。この地味極まりない時間は、豪華なリゾートホテルで過ごすそれよりも、よほど贅沢な「何もしない」という名のアートだった。
究極の贅沢、それは「期待しないこと」
旅の終わり、公園を去る時に私は振り返らなかった。次にこの公園を訪れることは、たぶん二度とないだろう。
観光地とは、「また来たい」と思わせるために作られた場所だ。しかし、名前も知らない公園は、私に何も要求してこない。ただそこに在り、やがて消えていく存在としての潔さがある。
私たちは「非日常」を追い求めすぎて、足元の小さな愛おしさを忘れがちだ。しかし、絶景を捨てて地味な場所を愛でる旅は、自分自身の感性を再起動させてくれる。
帰りの電車に揺られながら思う。明日からの日常も、見方を変えれば「誰も知らない公園」のようなものかもしれない。特別な何かがなくても、ただそこに在るだけで十分だと思えたなら、人生はずっと生きやすくなるはずだ。
次に旅に出るなら、また地図の余白を探そう。そこにはきっと、世界で一番静かで、誰にも邪魔されない贅沢が待っている。
